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大学に入学して確か最初の授業で、他の先生陣とは明らかに違った先生の自己紹介を見た瞬間から、私は「この先生しかいない」と思った。その後、様々な課題をこなし、作品を制作して行く上で、私はほぼ先生の言葉しか聞き入れなかった。


卒業制作の担当教授をして頂いた時、私は迷いつつも「もう完成!」と思ったものを先生に見て頂いた。先生の研究室の前の廊下にズラーッと並べたそれを見た先生は一言「まさかこれで完成じゃないよね?」とおっしゃった。私は「...はい(もちろんです、という顔で)」と答えた。たぶん先生には全てバレていただろう。


大学を卒業して初の個展をやった時、初日の朝一番に駆けつけて下さった先生に「どの作品が一番気に入ってる?」と訊ねられ、ギャラリーの端っこのほぼ死角の様な場所に展示していた作品を差した。「悲しい手紙」という作品。先生はそれを見て「うん。じゃあこれを売って下さい」とおっしゃった。「作品を作る」という事だけで精一杯で、まだ「作品を売る」という発想が微塵も無く、動揺してしまった私がつい「いいです。差しあげます」と答えると先生は「坂本くん、作品というのはどんなものでも絶対にあげてはダメだよ。例え1円でもお金を貰いなさい」とおっしゃった。そして「え、いや、でも」とウダウダしている私に代わり、その作品に値段もつけて下さった。その後、やって来た人達に何点かの作品が売れて行ったのだが、もちろん先生が付けてくれたものが他の作品の価格設定の基準となり、作品が売れる度に私がオタオタせずに済んだのは言うまでもない。先生は全てをわかっておられたのだと後で気付いた。


結婚のお知らせをしたら、先生らしい言葉で埋め尽くされた素晴らしいお祝いのFAXが届いた。相手が少々怪しい分野の雑誌編集者であるという事も諸手を上げて喜んで下さっている内容だった。勿体なくてここに書く事など出来ないが、当時私のFAXは感熱紙でいずれ消えてしまっては大変だと思い、コピーしていまでも大切に取ってある。


結婚後すぐに夫婦で初めて先生のご自宅にお招き頂いた時、まだお子さんも小さかったのに、とても静かな家だった事に驚いた。大人の時間がしっかり確保されていて、こちらに気をつかわせないご夫妻の配慮が素晴らしく(しかもそれが全然いやらしくない)、閑静な住宅街の中でそこだけ時間の流れ方が独特で、不思議な居心地の良さだった。で、まんまと長居をして終電を逃すという大失態をやらかした我々を、なんと先生は横浜から車で我が家(当時は早稲田在住)まで送って下さった。もう本当に申し訳無く恐縮してしまったが、中島みゆきをBGMに深夜の高速をぶっ飛ばすのがとても楽しそうにも見えたので、お言葉に甘えてしまった。


もう10年以上前、夫婦で1ヶ月間欧州旅行を敢行した際、たまたまパリ留学中であった先生とお会いした。オペラ座前で待ち合わせて、中華料理をご馳走になった。お料理が得意な先生には日本から乾物を数種類お土産にした。美味しい中華を楽しんでいたら、たまたま同じ店内に居合わせた日本人団体ツアー客がビンゴゲームで大騒ぎを始めた。先生が「おいおい勘弁してくれよ...」とボソッと呟いた姿は、今でもたまに苦笑まじりで思い出す光景だ。異国に暮らす日本人と、嵐の様にやって来て去って行くだけの日本人(自分も含め)の事をあんなに考えた旅もない。


帰国後はパリと東京で何通かメールのやり取りをした。
先生は沢山の回文を送って下さった。大傑作から本当にもうどうしようもないものまで本当に沢山の。お返しにちょうど発売になったばかりだった村上春樹×友沢ミミヨの回文の本『またたび浴びたタマ』をパリに送った。


数年前に同級生の清水直子さんとご自宅にお邪魔した時は、清志郎が亡くなった後で、先生が持っていたRCのDVD鑑賞会をした。始まる前に私がのんびり1階のトイレに行っていたら「坂本くん!早く早く!」と2階から先生に急かされた。その時の待ちきれないといった先生の姿が失礼ながら大変可愛らしかった。


私にちょっとした事件が起こり、バタバタと慌てて先生にメールしてしまった時、すぐにお電話を下さって「まず落ち着きなさい」とおっしゃった。冷水を浴びた様だった。でもその時の私が一番必要な言葉だった。


ある日Twitterで先生からのフォロー通知が来て膝から崩れ落ちそうになった。(mixiでマイミク申請された相手が先生だった時も同じく。けれどお互いmixiは疎遠になっていた)ああもう、どうしようもない下らない事がつぶやけないじゃないか。過去ツイートを遡られたりしたら「どうしようもないなあ坂本くん...」と呆れられるに違いない。全くなんという事をしてくれるのか、と嫌な汗がドドーッと出たが、結局その後先生とも相当にどうしようもない下らないやり取りばかりしていた。けれどそれはやはりどうしようもなく楽しかった。


私が紙版画を始めた事で「一度作品を見せて」と声をかけて下さって、2人で銀座デートをした。あえてデートというのは、目的の1つに先生がお好きだった都路里の「パフェ」を食べるというのがあったから。まるで高校生カップルみたいですねえ、と私がふざけて言ったら、最近の高校生はもっとマシなもの食べてるよと返された。その前にタイ料理屋でランチバイキングをご馳走になった。私も大概早食いなのだが、先生はあっという間に2回戦目に突入し、最後にデザートの小さいケーキも数種類持って来た。「先生、この後ツジリ...というか糖分大丈夫ですか...」という私の言葉に「まあ、ふふふ」と笑って答え、もちろんその後パフェもしっかり頂いた。


都路里に向かう途中、大丸のデパ地下を通りがかったら、世の中はちょうどホワイトデーの頃で、さして美味しくもなさそうなマカロンの店の前に男性らが長蛇の列を作っていた。横を通り過ぎながら「ありゃー、こりゃ大変ですね」と私が吐き捨てる様に言うと「そういう事は小さな声で言うものだよ」と先生に嗜められた。


都路里で念願のパフェを食べながら、作品ファイルを見て頂いた。緊張していたので、パフェの味は覚えていないが、先生は凄く面白いと言って下さって、その足で先生のお知り合いのギャラリーへ連れて行っても下さった。結果的に私の力不足故、そこで即どうこうという事にはならなかったが、先生は「一度本気でとことんまで自分の作品に向き合うという事をした方がいいですよ」とおっしゃった。それは卒業制作の途中経過を見て頂いた時に言われた「まさかこれで完成じゃないよね?」という言葉と私の中で繋がって、先生は私に足りないものを再三に渡ってずっと指摘して下さっているのだと思った。





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もしかしたら伝わり辛いかもしれませんが、これは全て私の自慢話です。誰に、何処に向けてという訳ではないですが、ほんの些細な事も含めたらまだまだ沢山あります。
私にとって神山明先生という存在は、その出逢いの瞬間からずっと特別すぎるものでした。
作品制作、人生においても、私の指針で憧れでしたし、作品を作る時は「これを先生が見たら何とおっしゃるだろうか」という考えが常にありました。
今、もう実際に見て頂く事が出来なくなってしまったという事に、正直途方にくれています。いい歳をして何を甘えた事を、と自分でも思いますが。
けれど、これからもこの「先生が見たら何とおっしゃるだろうか」は私の指針であり続けるのです。先生の「まさかこれで完成じゃないよね?」という言葉と共に。
そしてそういう「師」が、いつも心の中にあるという事は、やはりとてつもない幸運で、大袈裟ではなく生きて行くための力となるのだと思うのです。世の中にはそんな存在が1人もいない人も沢山いる、と夕べ家人に言われましたが、本当に私は何と恵まれているのだろうかと改めて思います。

昨日は同級生らと卒業ぶりに母校を訪れ、神山先生の研究室に伺いました。20年近く時間が経過した校舎は大分古びていて、学生の雰囲気や、周囲の景色も様変わりしていましたが、研究室は当時のままで、色んな事を思い出しました。我々が大学を去った後も、先生は長い事、多くの学生達の師となり、言葉や作品でもってその指針となって来られたのだという事を思いました。
飾られていた先生のお写真の前で、皆でしばし語らって、懐かしい学食で値段を気にする事なく好きなものを食べ、また語らって、他学部の校舎に展示されている先生の作品を見て、学校を後にしました。ちょっとした思い出ツアーになってしまい、先生に「君たち何しに来たの」と呆れられそうでしたが、先生のゼミ生であるなしに関わらず、先生を慕い、先生の作品が好きだった4人でした。


まさか直接伝えられなくなるだなんて思いもしませんでした。
神山先生、今まで本当に有り難うございました。
淋しく心細いです。
けれど、不出来ながらも先生の教え子であったという事は私の誇りです。
どうか天国でも素晴らしい作品を作り続けてください。
いつか見に行きます。
そしてまたパフェを食べましょう。
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by sakamotochiaki | 2013-01-22 15:41 | ◎こんな日々 | Comments(0)