2008年 11月 08日
露出狂 |
まさに今日だ!と思い立ち、さっきランチに「ほうとう」を食べた。9月に伊豆にいった帰り道、「ほうとう」とは無縁の海老名SAで、何でか買ってしまった自分土産。食べるタイミングを逃し続け(だってまだ夏だったから)、賞味期限ギリギリでようやく。ハフハフズルズルいうモノが、のさばる季節か。オトノハのラー油をかけたら、たいそう美味しかった。
ほぼ仕事机に寄生中。昨日はLAOXにインクジェットを買いに行ったのと、先週行こうとして満員で入れなかった『鳥久』に焼き鳥を食べに行ったのと、ドラマ『流星の絆』鑑賞以外は、ほぼずーっとパソコン前に居たので、グッタグタに疲れた。
前回の反省を踏まえ、「鳥久」には開店(5時)と同時に入ろうと家人と向かったものの、時間を過ぎてもなかなか表の看板の電気が点かず、近所をウロウロしてから向かうもなかなか点かず、もしかして点け忘れかもしれないよ(な訳ないのだけど)とも思い、思い切って入り口の戸を開けてみたら、中でご主人と奥さんが仲良くご飯を食べていた。忙しい週末の、開店前の夫婦水入らずをお邪魔してしまうという無粋な我らに、「もうちょっと待ってね」とニコニコ微笑むご夫婦だった(家人談)。
また近所をぶらついて、晴れて店に入ると、既に常連のオッサン客が一人。我々がカウンター席に着いてからも、オッサンの一人客が続々とやってきて、カウンター満席状態。「えーとね、たたきとレバーと砂肝と…つくね、あと瓶ビール」とか言って、食べ終えたらサクッと帰って行く。いいなあ、オッサンて。私も男だったら、いいオッサンになったのになあ。同じ事をやっても、これがオバハンだとこんな風には思えない。焼鳥屋ってオッサンのもんだよなあ。家人も盛んに「今度は一人でくる」と言っていた。うむ、行くが良い。私の分もオッサン一人焼き鳥を楽しむが良いよ。
食べたものはどれも美味しかったが、レバー、旨すぎた。塩で食べて旨かったので、珍しくおかわりはタレにしてみたら、タレも旨かった。
『流星の絆』はどんどん面白い。柄本さんが登場した瞬間から昨日の展開は想像出来たが、想像が実現化される気持ち良さを存分に堪能。原作は読んでいないけれど、凄く良く出来た物語なのだなあ。文章で読んだら、もう、涙の洪水だろうなあ。 バナナマンの設楽統が役者としてイイという発見。声がいーのです。しかし中島美嘉は何でか、もう長いこと苦手だ。
話は全然違うが、この所、様々な作家さんの作品を見る機会が増え、例えば器の作家さんであるとか、ガラスだったり、鞄や靴、フードもそうなのだけれど、実際に使える「道具」や「食べもの」を作って売っておられるのを見るにつけ、つくづく「絵」って役に立たないよなあと思わされる。展覧会をしたとして、値段もそこそこしちゃったり、それはその作家の思い入れひとつで金額が決まったりして、そんな自分が使えたり、胃袋に納められてたりしない様なもん、ただ愛でるってだけのもん、要らんわなーと。儲かっている作家なんかほんの一握りだし、概ね儲かる訳がない。食べたり、住んだり、眠ったり、使ったり、生きていく上で必須なものに比べると、絵やら、音楽やら、写真やらのアートは無くても死なないというのは昔からよく聴くけれど、確かにその通りだ。
けれど先日、コラムの花道やご自身の
サイトで町山智浩さんが紹介されていた映画『未来を写した子どもたち』(原題は『売春窟に生まれついて』。凄いタイトルです。)や『ヤング@ハート』、『ウォー・ダンス 〜響け僕らの鼓動〜』の様に、「それ(アート)が生きる糧」という程の逆境の中に居たり、死を目前にしたり、追い詰められたりした人々が居る事を知ると、やはりアートは生きていくのに必要なものなのだ、と思える。それが素直に嬉しい。
しかし、そういう重量のあるものの前に、今日食べたケーキが美味しかったーだの、夕日がきれいだったーだの、恋人と別れて泣いたーだの、そんな所から生み出されたもの(当然私も含め)が叶う訳無い!という事も思い知る。
もちろん「夕日がきれい」で生み出されたものを否定しないし、むしろ好きだし、私なんぞ、そっち側に属しているとしても、隅っこにこっそりと、誰かのお邪魔にならない程度の軽々しい存在であるが、重要なのは自分の立場を見誤らないかどうか、自分がナンボのものかを、せめて、わきまえているかどうかなんだろうと思う。自分で作って楽しんでいるだけならばともかく、それを他人様にお見せして良いものかどうか、自慰行為を披露しているだけで終わっていないかどうか、いや、作品発表って、だいたいそれで終わるもんだけれども、披露するならするで、それを自覚しているかどうか。
生きていく上で全く役に立たないものである上に、自分の恥部を一方的に見せつけて、さらには値段をつけて、あわよくば売りつけようというその面目の無さ、恥ずかしさを。
私の様に、絶望の淵に落とされている訳でも、余命宣告されている訳でも、貧困で住む場所がない訳でも、国が戦争中でもない、100%自分の勝手でやっている人は、せめてつつましくあろう。すいません。面目ない。お恥ずかしゅうございます。いやホントごめんなさい。
そうでなければ、ただの迷惑な露出狂なのだから。
『未来を写した子どもたち』
『ヤング@ハート』
『ウォー・ダンス 〜響け僕らの鼓動〜』
でもアートなんてそれでいいのかもしれませんが。お一つよろしくお願いします。
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追記。
…いや待てよ。売春窟に生まれた子供らも、絶望の中で美味しかったー、きれいだったー、楽しかったー、悲しかったーを写真に切り取っているのか。問題は、それを人に見せたり、売ったりする事を前提にしていない、自分のためにやっているという魂の清さの違いなのですね。そしてその環境によって生じる作品の温度差みたいなもの(ぬるい環境で生まれるのはぬるいものになてしまう様な)が、私が叶わないと思う部分なのかもしれない。
by sakamotochiaki
| 2008-11-08 15:17
| ◎こんな日々
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